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3年前の今日の記憶と記録。2011.3.11

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3年前の2011.3.11。

私たちの自宅は宮城県名取市海側にありました。

海からの距離にして2~3キロくらい。。。

2010年の3月に引っ越して、ちょうど1年でした。

 

旦那の職場は仙台空港

早中番だったので、15時ちょっとで終わる予定だった。

私は、その日、客先と打ち合わせだったので仙台市内に居た。

いつものように、「いってきます!」「行ってらっしゃい!」で互いに仕事へ。

私の過去の日記によると、引っ越し1年祝いを計画していた様でした。

 

3.11の数日前に、強い余震があった。

宮城県では20~25年周期で地震が有る土地で。

あれが、宮城県沖地震だったのかな?

なんて事をその日も客先で話してた。

 

14:46、地震発生。

カタカタ・・・あれ?地震かな?って思っていたら。

揺れ方が、だんだん強くなっていく。

私はトイレから出てきたところで、ドア付近だったので扉を開いて押さえた。

 

横に、縦に、建物が歪んで見えるくらいの揺れ方になっていった。

 

無力の状態で、誰かに肩を捕まえられて揺さぶられる状態と同等な感じが

東北全土に起きた地震東日本大震災でした。

揺れがおさまってきたところで建物の外へ出た。

 

そこで、旦那からの電話が入る。。。

「大丈夫か?」「うん、とりあえず大丈夫」

津波絶対来るから、家に戻るなよ」「嘘でしょ?え!?」

 

そこで、電話が終わる。どうしよう。。。。

 

仙台市内は、大混乱の大パニック。信号も動かない。

とりあえず車に乗り込み、パーキング突破して、自宅方向へ向かう。

 

車中、ワンセグで見ながら、津波がきたことを知った・・・

自分も大パニック状態、泣きながら、運転する。。。

 

2度目の旦那からの電話が入る。

「もしもし?家に戻るなよ!もう無いかもしれないから」

「えーーーーーーーー!?」

旦那の充電切れで電話が切れた。

 

それでも、自宅まで到達していないこと願い、運転すること約3時間。

近くまで来れたと思いきや・・・「これより水没地域、通行止め」

仙台空港も孤島となり、脱出不可と知った。。。

 

絶対、生きてる!って思っても、思っても、不安でただ泣いた。

なにが正しい情報なのかさえ分からない。

最悪な事態のニュースばかりが届く。。。

一晩、ただひたすら泣いて過ごした。あの日。

自分ひとり、何も出来ない無力さ。哀しかった。悔しかった。

 

翌朝3.12。水が引き、通行止めが解除になった。

車も通行していたので、私も自宅方向へ向かう。

まだ30cmもの水が有ったが、車で突破した。

アパート発見、自宅前に着く。

堀が2本あったおかげで奇跡的に1角残っていたのだ。

ドアの半分まで水位の痕、流木が玄関にあった。

沼地に足を突っ込んで、自宅の中へ入り

自分と旦那の衣服等避難用持ち出す。

 

3.12お昼過ぎ。

近くのイオンで食糧買い出しに2時間以上並ぶ。

イオンの対応は早くて助かった。

ガソリンスタンドにも2時間以上並んで給油できた。

手動で数リットル限定で給油できた。 

 

3.12夕方。

空港から、脱出してきた乗客を乗せたバスを見た。

が職員は出れないと思った。

 

3.12夜。

車泊地を探す。

役所付近で寝ようと思い、毛布かけて寝る支度してた時。

辺りは真っ暗、車後方から「ドンドンドン!なみー!なみー!」

コワイから無視しよう・・・と思ってたら、旦那の声だった!

旦那と、同僚が顔中真っ黒で立っていた!

車は全て流され、職員も徒歩で空港から脱出することが出来たのだ。

感動しつつも、急いで同僚の実家へ向かう。

 

3.13~1週間

同僚実家で1週間ほどお世話になりました。

農家であったので水も食料もあり、入浴もさせて頂いた。

快く迎え入れて貴重な頂き、食料も分けて頂いて涙が出た。。

 

当たり前のご様に食べていた御飯、お味噌汁、こんなにも美味しかったのかと。

 

1週間後~埼玉避難

ガソリン確保できた時点で埼玉実家へ。

 

衣類を知り合いからかき集め完了してから。

水、食料、ガソリン持って、宮城石巻方面の友人宅を数件回った。

自分らに出来たのは、そのくらいしか無かった。。

覚えてる景色は、そこに全くなくて。

想像を超えた景色しか無くて、ただ、ただ、泣いた。。。

 

女川にほど近い友人Y宅。1週間、連絡とれなくて。

元気な顔に、また会えた瞬間、抱き合って大号泣したよね。。。

また会えて本当に良かった、って。

渋滞に巻き込まれ、車乗り捨てしなかったら会えなかったと聞いた。。

 

空港でも、近隣施設の懸命な救助活動が行われていたそうです。

海側の最前線に立ってた旦那、ギリギリ間に合ったから生きて会えた。。

あの時、飛行機が居なかったから生きて会えた。。 

もし、居たら・・・火の海。想像するだけで恐ろしいです。

 

当たり前の日常が、自分の目の前から全て消えたとき。

日常の有難みを知りました。大切な人を大事にしようと思いました。

 

顔も名前も知らない誰かでも、尊い命が失われたことには変わりは無い。

ただ、お会いするキッカケが無かっただけですから。

 

ただ、ただ、哀しいです。残念でならないです。

 

亡くなられた方々の分も、生きてる私たちは精一杯強く生きる義務がある。

そして、日常にある幸せを感じて、たくさん笑うんだ。

 

それが、皆さまへの供養に繋がるのではないかと私は思っています。

 

14:46分。謹んで黙祷させて頂きます。

空から、Kも私たちみんなを見守ってて下さいね。

 

頑張ろう、東北。